秋葉原 歩行者天国再開しました

いつも更新が遅くなってしまっていますが、今日は少しタイムリーなお話を

本日(昨日23日)、2年半ぶりに秋葉原ホコ天が再開されましたね。


というわけで、東京班の個人レポートです。

まず、前回のホコ天からの変更点がいろいろとあります。
以前と比べて区間が少し短くなり、開始時間も12時から13時へ変更となるなどしました。

最初に秋葉原に着いて感じた事は、人人人。
今日はいつにもまして、人が多かったように感じます。

それだけ、この秋葉のホコ天に期待が高まっていた事が伺えます。
6車線ある中央通りが人で埋まっていて、こんなにもどこから人が出てきたのかと思ってしまうぐらいです。

朝日の調べによれば10万人超え。
それでは、これだけ混み合うだろうというもの。
車道では、各局の報道陣が右往左往しております。
以前の賑わいを一気に取り戻しました。


しかし、今日の歩行者天国はどこか以前の歩行者天国の時と違うような感じも受けます。
何が変わったのでしょうか?
↓以前のホコ天

秋葉原は過去を振り返らない街なんて言われていたりしますが
以前の秋葉原は、ここでは何かが起ここるかもしれないといった、そんな測定不可能な感情が裏にありました。
そういった内部から沸き起こる期待値が膨れすぎ、あの悲惨な事件が起こったといえます。

ですが、今の秋葉原には何か起こるかもしれないという期待値はあまり感じられません。むしろ、裏にあった物が表層化しています。
少し前の秋葉原には3つの視点が存在していましたが、次第に見る見られるだけの関係になり、今では新たな視線が生まれてきています。
監視カメラに厳戒パトロール、報道陣。
それは、つまり、秋葉原が以前の趣都ではなくなってきているということではないでしょうか。
巨大なメディア都市として拡大した秋葉原は、これからどのような方向へ進んでいくのでしょう。





鉄道博物館もついに姿を消してしまいました。
銀座線の、幻のホームはどうなるのでしょう。
佐久間橋の掘り割りといい、中央卸市場跡の駐車場といい、後ろを振り返らず進んできた秋葉原は、振り返らなかったが故に落とし物を拾い忘れ今に至っています。



最後に、新宿と秋葉原ホコ天。大きな違いがあります。
それは何でしょう。



そうです。
車線の数が違います。
秋葉原は6車線、対する新宿は4車線。
秋葉原の方が広いです。


ただ違うのはこれだけではありません。


こちらの写真を見てください。

新宿の人々はあまり車道を歩いていません。
秋葉原は、車道まで前が見えないくらい人であふれかえっているのに。
恣意的な写真ともいえますが。


じゃあ、銀座はどうかというと…

それは次回ということで
では

金谷
 

第8回 まちあるき 東京スカイツリーだけじゃない

10月3日、錦糸町公園ではすみだまつりが開催されており、とってもとても賑わっていました。

キノコ騒動もあり、更新が遅くなってしまいましたが、久しぶりのまち歩きです。



今回の東京班のまちあるきは錦糸公園からです。
この公園は昭和初期に帝都新三大公園の一として数えられた、公園でした。
そして、関東大震災と深い関係があります。


関東大震災の被害はとても大きなもので
死者・行方不明者数10万人以上
住家全壊 : 12万8266戸
住家半壊 : 12万6233戸
住家焼失 : 44万7128戸
   (Wikipediaより)
であったといいます。


この震災は、倒壊よりも火災による被害が大きかったことがわかります。
とはいえ、石造、煉瓦造の建物も多くが倒壊しました。

しかし特に、住宅が密集していた下町一帯はその火災によって火の海となります。

当時の下町一帯は住宅密集地で長屋が所狭く建ち並んでいたために、どこかで火災が起これば次々と燃え移っていき、被害が瞬く間に大きくなってしまいました。
さらに、追い打ちを掛けるように9月1日の関東地方には能登半島に接近していた台風の影響で強風が吹いていたといわれています。

この錦糸公園のある隅田川の東側一帯も焦土と化してしまいました。

震災後、帝都復興計画が後藤新平を中心に進められます。その計画事業のひとつに防災や避難所とすることを目的として震災復興公園がつくられます。
そのひとつが錦糸公園です。これが帝都新三大公園といわれ、他に浜町公園、隅田公園が整備されます。

錦糸公園昭和3年7月18日に開園し、当時は中央に大広場があり、その東南になモダンな噴水がもうけられていました。
その姿は、戦後時代を経るごとに面影を消していき、現在では当時の様子をうかがう事は出来ません。
どうして、なくなってしまったんでしょうか、噴水。。

前置きが長くなりましたが、先に進ませていただきます。



すみだまつりには地震体験車が来ていました。
震度7を体験することができます。
やはり震災復興公園ですから、震災忘れざるべからずということでしょう。



少し歩くと3面を建物で囲んだ、前庭空間がありました。

お昼と云う事もあり、お店は閉まっていて人の気配がありませんでしたが、
どんな感じで使われているのか夜に来て、
様子を窺ってみたいものです。
スナック、スナック、、、居酒屋、、
是非この前庭活用したいです。


路地があったら入りたい。

この路地は直線ではなく途中で折れ、先が分からなくなっています。
建物の表側が大通りの角地にあるため、このような路地になったと思われます。
立ち飲み、「安月給」



玄関には何があると思いますか。
知っている人がいたら是非教えてください。

なんか背が高いような、
普通なんでしょうか。
エレベーターシャフト、格納庫、吹抜空間
我ら東京班の見解も様々です。

よく見れば、玄関の横には躙り口もついています。


この近くには、こんな家も建っていました。

セカンドハウスでしょうか。



堅川河川敷公園改修工事

カルバートの撤去作業をしていました。
カルバートを開いて、その周りの河川敷を公園として整備するそうです。
カルバートによって隠されてしまっていた水辺を開いて、親水公園になるのでしょうか。
カルバート研究者のOさん、是非ぜひ研究対象にどうです。



やはり、下町と言えば町工場の存在は忘れてはいけません。
最近では数が減ってきているということを耳にしますが
まだまだ、終わりません。

町工場の底力を感じながらさらに南へ進みます。




江戸時代、材木蔵だったこのあたり、
今ではその敷地がそのまま受け継がれ、公園として使われています。

こちらでも、イベントが開かれていました。
そろそろお昼です。
おなかがすきました。

カレー屋を探し、前編をこの辺で失礼したいと思います。
ではでは、後編へ続きます。

金谷

三鷹の天文台のような建築など

遠い星の輝きは、何万年の時を経て初めて私たちの目に届くといわれます。想像を絶する時間の旅は、それだけで十分に私たちの心を打つのもですが、人間の星のへの探究心は、ある特殊な建築をこの世に生み出しました。今回は番外編として、先日訪問しました三鷹市の「国立天文台」についての報告をさせて頂きたいと思います。

まず国立天文台とは、すばる望遠鏡など第一級の観測装置を備え、宇宙の謎を解き明かすことを目的に設立された研究機関で、現在国内外に6箇所の施設を備え、その本部が置かれているのが今回訪れた三鷹の施設となっています。国立天文台の前身「東京天文台」は、明治初期には本郷、その後は麻布にあったのですが、周囲が市街化してしまったため、大正3〜13年にかけて、暗闇を求めて三鷹へと移転してきそうです。

現在、敷地内には移転時から昭和初期にかけての施設が幾つか残され、展示施設として一般に開放されています。空を眺める望遠鏡の一部である彼らは、建築というよりは、建築のような機械といったところでしょうか。その形態は多様で、彼らの「眺め方」の違いは、建築的な違いとして表現され、どこか愛嬌のある表情を見せてくれます。そんなちょっとステキな天文台たちを、幾つか紹介して行きたいと思います。



これは1921年建設の、第一赤道儀室と呼ばれる天文台です。典型的な円筒型ですが、周囲にバルコニーを廻らせているのが特徴的です。


これは1926年建設の大赤道儀室。先の第一赤道儀室と同じく円筒型ですが、規模が大きくRC造となっています。

この二つの円筒型、注目なのは開閉する天井部分。ドームが木で造られています。造船技師の力を借りて建造されたそうです。


次に1930年建設の太陽塔望遠鏡(写真左)。これはスクラッチタイル貼りの塔に、帽子をかぶせたようなスタイル。ドーム部分を取り除けば、昭和初期の商業ビルのようにも見えますが、実はこの塔自体が望遠鏡の筒の役割を果たしています。
写真右はレプソルド子午儀室と言い、一見すると普通の住宅のようにも見えますが、実は屋根が真ん中で二つに割れる、正真正銘の天文台です。棟方向に組まれるトラスが特徴的です。


最後は、1924年建造のゴーチェ子午環。半円型で、奇抜な形態と上げ下げ窓が対比的。屋根が横にスライドすることで開閉を行います。

以上、多様な表情を見せてくれる三鷹天文台たちを見てきました。天文台という一つのビルディングタイプの中だけで、これだけ多様に展開する表現の違いに、心を動かされます。半世紀以上にかけて空だけを眺めてきた彼らは、今ではその役目を終え、現在は宇宙の神秘を伝える展示施設として第二の人生を歩んでいます。屋根を閉じ、空を眺めることを辞めた彼らは、今ではとても建築的で、内部に抱え込む濃密な時間が、空間に深みを与えています。そこには、確かにデザインでは造り出せない空間の重みみたいなものが存在していると、そんな印象を与えてくれるのです。

興味を持たれた方は、ぜひ実際に訪れて見られるのが良いでしょう。90年の時間を経た今だからこそ、三鷹天文台は光り輝いています。

活動報告「東京はロマンの塊だ」

こんにちは。熱いですね。
最近ご無沙汰だったので、久しぶりに更新したいと思います。



高村研の東京班では定期的に街歩きを行っています。
フィールドに出ると今まで知らなかったことや、予期せぬ遭遇が刺激を与えてくれます。


今回は、いままでの中でなかなか面白かったものを幾つか紹介してみたいと思います。

まずは目白のこちら。


道路標識や看板、さらに住宅をみてもどことなく外国的な雰囲気をかもしだすこの場所。
表札を確認してみると、テラリー・・コギャン・・みなさん外国の方のようです。



どうやらここは、徳川黎明會という団体が管理している外交人向けの宅地のようで、
この敷地の隣には、1932年建設のRC造スクラッチタイル貼りの黎明會本部の建物があります。

大きな敷地割(屋敷跡など)と、昭和初期の近代建築、これらが不意に顔を出すのが目白らしさです。

特にこの場所のように、全体の構成は踏襲されながらも新たな住人によって街が変わっていくその連続性みたいなもの、ロマンですね。





さて、次は三河島

高村研究室では毎年アジアの都市の研究を行っていますが、アジアの都市を歩くと必ず目にするものがあります。里弄です。

里弄は華僑を合理的に収容するためにイギリスによって始められた一体型開発のことを指しますが(間違っていたらスミマセン)、上海、香港、ベトナムなどのアジアには必ずあるのに、なぜか日本にはありません。


がしかし今回、三河島で見つけてしまいました。これです。





木戸の部分に〜里とあれば完璧です。
ちなみに路地から住戸にアプローチできます。




本物はこちら。



まあ、そうかもなって思う人が一人でもいてくれれば私はロマンです。




それでは最後、御茶ノ水です。
御茶ノ水といえばニコライ堂

コンドル観衆、岡田新一郎改修のいわずと知れた近代建築の代表作です。
一度は行った事があるかたが多いと思いますが昔の姿をみなさんご存知でしょうか。




ニコライ堂の敷地は元々、定火除役といういわゆる消防署のような機能を持った武家屋敷でした。
当然、市中を見渡せる小高い場所に建っており、その跡地に建ったニコライ堂は遠く九段や秋葉原の方からの容易に見られるほど、目立つものでした。




象徴的なこの建築のアプローチは、さらに象徴的です。
小高い丘に向かって延びる南側からの大階段、垣間見えるドーム天井、にくいほどに象徴的な演出です。
現在はアプローチが北側に移動しているので、そのような効果はありません。




しかし発見しました。
ニコライ堂の大階段を発見しました。

現在、日本大学の校舎が建っているかつての南側アプローチに潜入です。





建物の背後に沿って歩いていくと、





ああ、これがかつてのニコライ堂のアプローチ。
いまはコンクリートで埋められていますが、当時の姿を創造するには十分すぎる痕跡です。
都市の歴史に思いをはせます。ロマンですね。




以上、幾つか紹介してきましたが、
今回は著者のかなり強い偏見で選定しています。。
まだまだあるのですが、それはまた次の機会にとっておきましょう。
それでは。

東京班の濠会「外濠でご飯が食べたい」

高村研究室のある市ヶ谷には外濠があります。

この巨大なオープンスペースは実ななかなかのポテンシャルを秘めています。

日比谷公園のような和製西洋風公園ではなく、

上野公園のような江戸の名勝型の公園でもなく、

元町公園のような震災復興公園でもありません。

明治以降に、むしろ市民によって解放されていった江戸の遺構で、

ある意味で最も都市的な公園の一つといえるかもしれません。


さて、そんな外濠でご飯が食べたい。

我々東京班はゼミ室を飛び出します。


水と緑と建築と鉄道、そしてお弁当。

五感で感じるランチは何事にも代え難い。


都心でこれが出来るっていうのはほんとに凄い。

都市で生活する醍醐味です。

都市のオープンスペースは私たちを呼んでいます。

そしてこれからも随時、外濠でご飯が食べたいです。




もうすぐ夏、東京班は熱さにもめげず、濠会つづけますよ。

第7回東京班まちあるき「高速道路を歩きたい」

高速道路の高架下を歩きました。
首都高速が架けられて、はやもう半世紀が経ちます(あと少しで)。
僕たちから見れば先輩。いや父親か。
今回のまちあるきでは、その高速道路の周りをウロウロと、新橋に始まり浅草まで歩いて参りました。

戦後生まれのメガストラクチャー高速道路が繰り広げる世界を見ていきます。
しかし、この街歩き。
かなり脱線して、高速道路を飛び出して、建築、道路標識、植栽、気になるモノは何でもイロイロ見て回っております。

午前10時、新橋に集合。
天気は快晴、気温も急激に上昇し、ヒートテックが暑さを助長します。

新橋駅を出発し、高速沿いに歩いていき、近年復元された旧新橋駅舎を横目に見ながら、さらに進むと銀座8丁目にSF に登場してきそうな歩道橋がありました。
この形態、コーナーの曲線といい、どこか首都高を感じさせるデザインとなっています。


そして、シネパトスへ向かいます。
ここは、かつての三原橋。橋の下には三十間堀川が流れていました。
震災後に架けられた橋脚の姿を今でも見ることができます。


銀座4丁目〜1丁目
ここにはかつて築地川が流れていました。
今は首都高が流れています。
船から、自動車へと時代は変わったのです。
このあたりの高速道路の上に架かる橋の中腹には公園がセットで置かれています。

そして、公園はすべて違うデザインをしています。
現代の橋詰めでしょうか。
橋の脇にあるので、ハシクレといったほうがいいですか。
ベッキオ橋、ムーア川に架かる橋(正式な名前は知らないのですが)
と橋に付加施設がある例はいくかあります。
この一帯は、付加橋梁の宝庫です。すべて公園ではありますが。

公園に設置されている健康グッズは
とても、痛いです。刺さります。老体には応えます。


どんどん進んでいきます。
京橋公園。

ありました。
震災復興期のすべり台です。
震災で丈夫さを求めたのか、コンクリートのすべり台ってさすがですね。
でも、すべれない。
ここに書かれているキケンって、どういう意味なんですかね。
老朽化していてキケン、子供がけがをしたらキケン?
そういえば、今はどこに行っても4人乗りのブランコが見あたらないですよね。
昔、指をはさんで血豆ができたのを思い出します。
最近、多くの遊具が撤去されています。



高速の高架下はいろいろな利用がされている模様です。
ヴァリエーションがたくさんあります。
これは駐車場。



ビルの合間から、高速を見下ろす一同。



またまた、震災復興期のモノを見つけました。
阪本小学校。
それから、ここへ来るまでに大江宏設計の三木ビル、第2三木ビルがあったので、外から観賞しました。

そして、震災復興の阪本小学校。
特別に校庭から見学させていただきました。
決して怪しい者ではございません。



そして分岐点となる江戸橋ジャンクション付近。
非常に動きがありますね。このあたりは、上下左右縦横無尽に高速が走り、迫力のある場面です。
それに対して、三菱倉庫ビルの曲線と水平線は落ち着き堂々とした印象を受けます。停泊している船のよう。
ちょっと写真はうまく撮れていませんが。

現在、建て替えが決まり、外観が保存されるようです。
外観保存の、高層化。
最近、浸透していますね。




お昼です。
カレー部一同は昼カレーを済ませ、
次なる方向へ歩いて行きます。
何かニオうところに。
人形町方向へ。

早速、すごい。
歯医者です。

1階が洋室で2階が和室になっているのでしょうか。
いやこれは、明治期の大邸宅が和館洋館を横に並べて置いたのに対して
下町の限られた敷地のため、和館洋館を上方向に並置してしまったのですね。
と、思えるくらい、上と下で対照的な建物です。
でも、よく見ると1階は後から手をいれているようにも。
中はどうなっているのでしょうか。
とても気になります。



これもおもしろいです。
現代の帝冠様式でしょうか。
なまこ壁に三角屋根。
ナショナリズム




水天宮へ向かいます。
この周辺は大小様々な路地が観察できます。

もう少しで隅田川が見えてきます。

清洲橋
リベットが美しいです。
萌えませんか。
今日は震災復興期のモノとよく出会います。



隅田川を遡り、浅草を目指します。
中央区立スポーツセンターのあたりから隅田川を眺めます。
後ろでは、若者たちがスケボーの練習に励んでいました。


新東京タワーの姿が見えてきました。
完成までもう少し。
白い。


ようやく、浅草に到着。
休日だったので、とても人で賑わっていました。




現代の川に置き換えられた道路網。
しかし、かつてのまちが水運に対して開けていたように、現代のまちは高速道路に対して開いているとはいえず、眺めるモノ、走るためのモノ、に留まっているようです。
邪魔者というより、景観を構成する一部になっているという印象を受けます。
一方的に通り過ぎなくてはならない高速道路の性なのかもしれません。
誰か高速道路に対して心を開いているのでしょうか。

次回も、「高速道路を歩きたいけど、風の向くままに歩きたい」をつづける予定です。

担当:金谷

第6回東京班街歩き

5月1日(土)第6回東京班街歩きが行われます。
今回のテーマは「高速道路の高架下を歩く」です。
詳しい話は後日するとして、今回はこれまでの歩みを簡単に紹介します。

第1回から第5回までは、「東京の山手を歩いてみよう」をテーマに山手の近代に移転してきた歴史ある大学周辺を歩いてきました。

第1回 早稲田大学〜牛込
早稲田大学周辺の学園都市を見ながら、大久保通りを通って牛込まで歩きました。


第2回 小笠原公爵邸〜法政大学
東京女子医科大学や住宅の背割り線が路地として使われている空間など見て歩きました。


第3回 明治大学東京大学
御茶ノ水ニコライ堂を見て、神保町でカレーを食べて、湯島天神などを見て歩きました。


第4回 立教大学東京カテドラル聖マリア大聖堂
この日は寒かったため、建築見学をしました。自由学園明日館、学習院吉村順三記念館など見て歩きました。

第5回 慶応大学〜新橋
三田・麻布を見て周り、新橋のニュー新橋ビルも見てきました。


以上、簡単ではありますが今までの街歩きでした。
今後とも活動報告を定期的に行いアップしていきたいと思います。

著者M・H